SeaOpening感想2
SeaOpening感想 その2
清と片桐のセリフの掛け合い以外で
■女性ダンサーK=清の影
ナオの服のショーのシーン
・ナオによる「お前のここは女の子だろ。その女の子が居場所がなくて泣いてるの。えーんって」→「清の心=女」
・ナオのショーにK(「sea is always opening」と発言した男の彼女)の登場
・Kは清の股の間から登場する(非現実的)=清が「生む」再生のものがたり
→Kはその名前の通り、清の影である。各所で、清の正反対の存在として登場する
・気がついたら清が探し求めていた片桐がすぐ横に立っている(非現実的その2)
■死のメタファー
・「すげー遠く、想像もできないようなとこ」→片桐「想像もできないようなとこか、どこだろうな」
→想像もできないようなとこ=この物語の中では死のメタファー、伏線
■死=「突然いなくなる」こと
「すみません、片桐、舞台降板するって」
『すみません、片桐、即死で』
「なんで片桐いなくなったんですか!こっちが聞きたいですよ!」
『なんで片桐死んだんですか!こっちが聞きたいですよ!』
→後から真相を知るとマネの逆切れにも道理が通り、切ない
→死の物語だったことを知ってから見ると、稽古していた芝居が「死」についての僕と奴の物語だったという風に読める
■らもん(劇中劇の脚本)の叶えたかったこと
らもん「今更だけど、もっと遊んでやればよかった。ずっとあいつ1人だったから」
→片桐の「遊ぼう」
→城田「遊ぼう」(沖縄弁)
実は何周目かの世界なのでは
そして、毎回毎回叶わない運命にあるのでは
だから先手を打って振る、みたいな展開なのでは…??(落ち着け)
そう読まないと、振ったのに「何度も出会う」って落ち着かないんだよ、、
(芝居にでてきたセリフを繰り返してるだけなんだけどね!意味があると読んでしまう)
■タイトルの意味
タイトルの出るシーンでの酔っぱらった清が、意味を分かってから見ると切ない
あと、ロゴのOの部分とかポスターとか、髑髏紛れ込んでる…意味怖だよ…
■城田との追いかけっこ
歌うのは、母にまつわるエピソードの代名詞化してる「はいぬみかじ」
「行って来いよ」
「俺も混ぜろよ」
危ないところで助けに来る、そして城田と片桐は友達
現実のらもん脚本の片桐は、すごい「ピンチを助けに来てくれる王子様」みに満ち溢れていて優しい。「ちゃんとお別れできたかなって」と言っているし、らもんは半分以上、清のために物語を描いたのだと思う。なので劇中劇の中では「ピンチを助けに来てくれる王子様」像の片桐だし、清の心をめっちゃ大事にしてくれている。
手紙を裂く→さいごの手紙を渡すシーンは劇中劇の脚本にはなく、清の想像の中なのだと分かる。
■ものがたりの中の片桐と「女」
・自分を棄てた母→蛇の子、蛇に騙された 「俺もう待ちたくないよ」
・娼館にやとわれている娼婦美波 母を思い出してしまいかわいそうで抱けないのでは
→ものがたりの中では、母を待ちながら、妻帯して、地元で住み続けるから分かれる。
清の恋心に対する決着の付け方
らもんの脚本によると、片桐は女2人のために芝居をやめる
清に見え透いた嘘と分かるような表現にしてるところに、らもんの優しさ出てる
らもんの心残り→「遊ぼう」というセリフに
清の心残り→現実世界ではできなかったけど、一連の行動に、そして「明確に振られる」という結末に
嘘と分かる嘘をつき、清が愛想をつかすような(又は、そこまでして俺からの好意を避けたいのか、と清が感じるような)あえての「かっこ悪い」振り方で
■心情の表現
清が片桐に妻を紹介されるシーン、外は夜のように暗く嵐のように風が吹き荒れているのに
片桐が見送りに来たときは真昼だった
■ゲイバレ問題
稽古場でのゲイいじめ
→きよしおびえる
→じつは隠し通したけど片桐もおびえてたのでは
「お前、男のファンいるんだな。良いな。」
→
「清→片桐:男としての片桐を好きな人」
「片桐:女になりたい人」
という意味での「違うんだ」だったとしたら?
片桐は過去にべたぼれされてた女子振ってるし。
「そういうタイプの男」って、言及されてないから・・・
■演出家・佐竹による指導
「人前で恥ずかしいことをしてワーキャー言われて嬉しいか?」
「お前らの愚鈍で どうしようもないカタマリを隠すな!」
予告映像の0:24の清(麻璃央)の表情
恍惚としててすごい、見ほれる、、
■手紙を裂くこと
片桐いわく、ファンレターの気持ちに応えることはできないし、持ち帰っても気がたまるから、読んだ後に裂くのは「気持ちの供養」をすること。
さいごの手紙、なんて書いてあったんだろう。
最期から2行目、「俺も歩いて行きます」は見えたんだけど。最後の行には何が??
■あげて落とす
・プールも楽しそう、野球も楽しそう、しかしそれは劇中劇だった。さよならのために、つくられた物語だった。
■非現実的な不気味さ=耽美的
・エア野球
城田かわいい
道具なしなのが非現実的で、違和感がある→非現実ゆえの、美しさ
・ずっと同じ服
寝具がなくて何日もあの家に暮らしているのが、「虚構」っぽい。
・相手に触れることで感情を読み取り合う
この映画の「現実」の世界観では一般的なことなのか?とはじめ思ったが、城田が知らないところを見ると、何か不思議な感じ
■奥さん紹介シーン
・「実は2年前に結婚してて、誰にも言ってなかったんだ」
→わあ、まって!”叶わないと自覚していたとはいえ、好意を寄せていた人からいきなり「結婚してました」って言われる”なんて!
タイムリーに次ぐタイムリーな話題なので心削られる人は気を付けて…
→う、うわ~!!!!せつない!!!わたしが清の立場だったら、「えっ、結婚してたの」「てか結婚できるほどの甲斐性があったんだ」「え、自分既婚者に迫ってたの!あなたにしたら さぞ気持ち悪かったよね!ごめんなさい!」って感情まで出てきちゃう…えげつな…切な……
いやもうね、こんなタイミングであれだけど「人気俳優」にこのシーンを演じさせる意味ね~!と考えてしまう。(世界中の芸能人、どうか頼むからこのシーンの引きちぎれそうな気持分かってくれ~!!)
・「お前は戻れ、お前は芝居を続けろ」
・「これはそうゆうんじゃないから」
・「元気でやれよ」
→清の表情が乾ききってて、心情を考えるとすごい切ない。
好きだった人との別れが「突然の事故」でお別れができてない→「既婚者だからとフラれる」ことで相手にお別れができる、自分の中でも踏ん切りがつけられる…。脚本のらもーんさんは、片桐のことを本当の既婚として書いてないところで清へのやさしさがすごいなと思う。これを読んだ「現実」側の清はさぞ救われたことだろうな、と想像してる。
■清の「手」
・女の子双子、胸に手を当てて推しを当て合う
・清と片桐、手をつないで感情を分かり合う
・弟と幹生、食べたいものを当て合う
・弟と城田、「カレー」「やきそば」で遊び合う
→性的な意図があってというよりは、感情を伝え合おうまたは片桐の感情を知ろうとしたのでは
■かばった
・片桐起きてた
→個人的にはこのシーンよりも、その後の食事のシーンでのアイコンタクトのほうが萌えポイント高かったです。気まずくせず、普通に接してくれる片桐、口先だけじゃなく「自分と違う人間」に理解がありすぎて。
■海開き(=タイトルSeaOpening)
ものがたりの中=プール
・海開き前だからプールにみんなで入りにいく
・「海開き前だからまだ入れなくて」「せっかくこっち来て海入れないのもかわいそうだし(プールへ)」「僕およげないんですって」
現実=海
・外国人「Why?Sea is always Opening!」
・清の影であるKが「Goodbye forever!!」と言い、海開きした海へ入っていくシーンで終わる。
→海が開く=別れが完了する、
海はいつでも開いている、=片桐はいつでもそこにいる、
みたいな暗喩であるのかも?
■それぞれの別れ
・片桐「来い」
球場に清だけの、ひとり野球が切ない
清の全力投球は片桐に届いたのだろうか?
・ドナドナされていく片桐を、美波が見送るシーン
一番泣けるシーンだった。どこに行くのだろう。想像もつかないようなとこ?
・幼い片桐と遊ぶ弟
小さいころ一緒に遊びたかったよね…よかったね…
■終わり方
監督の味付けがいいよね
特に映画の終わりの部分なんか、上映してるフィルムを止めるように映像がカシャッと止まり、陽気な音楽が流れ出すことで私たち観客は「現実」に帰って来れるし、何より「全部虚構だった」感がある
□まとめての感想
ここまで、考察ノートや手近なコピー用紙に書き散らしたものを一気に文字起こしって作業してて思ったんだけど、わたしすごい阿呆だなって。
初見で全部当たり前すぎて考察する隙間もない人も絶対いると思うけど、私は毎回新発見があって「あ~!そっかあ~!」「え!そっちか!!な!る!ほ!ど!!!」って感じるから何回も見れるし、ずっと考え続けられるんだと思う。ある意味エンタメの消費者として向いてるよね。来週はクリアファイルの柄変わるし、また見に行こ。